キング言「でっちあげるだけ」の面白さ

スティーヴン・キングの小説作法の中に、自分がある小説のアイディアを考えだし、それにかかわる町のことについてよく知らないことをあげ、しかしそのあと「大丈夫だ。知らなければ、でっちあげるだけだ」と書いてある部分がある。
心に残って離れない。おもしろい。
知らなければ、でっちあげるだけ。それこそ、創作、小説、フィクションだと思った。
私は通訳をしている。
通訳や翻訳をする時に、いつも「これで間違いないだろうか? 確かにそう訳していいだろうか?」と常に気をつけるし、気を配る。たった一つの言葉の訳のために、いくつもの資料にあたったり、調べたりする。横への誇張も、タテへの誇張も許されない。
通訳が終わった後も、後で点検する。あの訳でよかったか、話者の意図に外れていないか、などと思いめぐらす。
だから、通訳・翻訳をしているシーズンや同時通訳の日の帰宅電車でのクールダウンのときには、まとまともな本が頭に入らず、いつもほぼ、ハーレクインロマンスの読者になる。
私はまた一方で、政策アドバイサーをしている。
公共経営研究科の論文やレポートを書くと時や、政策アドバイザーとして提案をする時には、常に、「ほんとにこのデータで、そう言えるか?」「これらの情報をそう受け取るのはただしいか?」「他の観点からの見方はないか」とひたすら考える。だから、必死に一次情報をあたるし、その他の別の観点の情報を大いに探す。
嘘や誇張や、虚構に間違って飛びつかないようにするし、事実から外れないように努める。
だから、それに集中しているシーズンは、気分転換のときには、アニメやマンガがおもしろくなる。切り替え時期には、アメリカのテレビドラマのビデオをガンガンに見る。
どちらも、きりきりに絞り上げたり、事実から半歩でも外れないように集中した状態を、それぞれ、ぴったしの方法で緊張を解きほぐし、リラックスするのだ。
だから、創作・小説・フィクションというものが、嘘でいい、虚構でいい、でたらめでいい、でってあげでいい、と言われるとすっきりとする。
事実でないことで真実を描き、虚構で真理を表現し、嘘で未来の事実を表現する。そういうことに、読む方としては心動かされていた。そして、書く方になるぞと思ったら、すっきりとしたのだ。