掻蝿驥尾に付して万里を走る

よく「鶏口となるとも牛後となるなかれ」という。
一方、「掻蝿驥尾に付して万里を走る」という言葉もある。
私は長い間、「掻蝿驥尾に〜」をばかにしてた。どちらかというと「鶏口となるとも〜」の言葉の方を重要視していた。
どうせなら、馬の後ろにくっついて万里を行くより、馬や牛のように大きくななれなくとも、小さくとも、まだ自分自身がそのものになる方がいい、と。
大きなモノや組織にすがりつくよりも、小さな組織のトップがいい、と。
最近、考え方が変わった。
「掻蝿驥尾に付して万里を走る」という言葉が、いかに深いこと、凄いことであるかに気付いたのだ。
万里を走る事が重要なのではない。万里行った先で展開する事が大事なのだ。だから、万里を行く方法なんか、何でもいいんだ。と。
走る馬にすがりついて、しがみついて、万里の先まで行き、そこでやりべきことやりたいことを、すればいいのだ。エネルギーは無駄に使わなくていい、使うべきところまで温存すればいいのだ、と。
万里を走るのが目的じゃあない。方法なのだ。万里の先で、エネルギーも知恵もすべて使えばいいのだ。目的と手段をこんがらがってはいけない、と。
眼からうろこである。
今までバイアスかかっていた自分がもったいない。もし、もっと早くに分かっていたら、どれだけの万里を行けただろう。(笑)