研心塾で考える

昨晩は研心塾の定例会・シンポジウムがあった。
今回は、自らを代表といわずに塾僕と称する武田修三郎教授自身が、いつものはかり知れないほどの遠大で深淵な話をされた。私は教授のこの分かりにくい話が好きで、そろそろ聞きたいなあ〜と思っていたころだ。
新しく京都大学にできる大学院大学の思修館や「知政学」について、ギリシャソクラテスから解きほぐして話をしてくれた。
『「小学校から道徳や修身を教える」のではない、「小学校から哲学を教える」べきだ。道徳・修身と哲学は違う』にいたく同感した。
私も、一番ものを考えだすころに『哲学』をするべきだと考えている。哲学とは「何かを考える」ということだからだ。人間とは何か、人間はなぜ生まれてきたのか。人間はなぜ生きるか。人間はなぜ死ぬのか。なぜ、なぜ、なぜ。それを追及するのが哲学。なぜの対象が問題なのではない。問題を考えるのが哲学だ。科学のすべての基本だ。
ちなみに、この「人間はなぜ〜」を考えるのが哲学で、この人間の部分が『私』に変わり「私はなぜ」になると宗教になる。問いが人間は〜でなく、「私はなぜ生まれてきたのだ」「私はなぜ生きるのだ」「私はなぜ死ぬのか」「私はなぜ此処に(家・この国・この立場)に生まれてきたのだ」になると、宗教になる。そうどこかの本で読んで、目からうろこが落ちた気がした経験がある。
昨日は思わずそれを考える日だった。